2011年11月21日

 DH小説「告白」   byペンネーム 一歩

 

「あんたもう少し明るくできないの」

 チェアに太い体を投げ出したままの姿勢で、佐伯美奈子さんが大声を上げました。言葉とは裏腹に快活な声だけど、とにかく声が大きいのです。二つ離れたチェアで診察をしていた院長が顔を上げ、マスクを通しても苦々しげに口元を歪めているのがわかりました。

 院長は以前から佐伯さんを毛嫌いしています。はばかることなく、もう少し経営状態がよければ、ああいった患者は断るのだがと口にします。

 私は佐伯さんのことは決して嫌いではなく、どちらかというと好きです。デリカシーがなくて、言いたいことは何でも口にする人ですけど、悪い人ではありません。

 一年前、彼女は腫れた歯茎を抱えて診療に訪れました。

「歯茎から血が出るし、痛いし。ごはんがちっともおいしくないのよ」

 診察をした院長は、「抜いたほうがいいですね。インプラントを入れましょう」と言い、佐伯さんは「何言ってんの。私はまだ五十五歳よ。入れ歯なんていやよ」と跳ね返し、「インプラントはあなたが想像されている入れ歯とは少し違います。少々お値段は高くなりますが……」と説明する院長に向かって、「そんな金ないわよ。治してよ。あんた治せないの」と噛み付き、その結果、私のところへと回されてきたのです。

歯周病はかなり進行していました。奥歯からの出血も酷く、一部の歯が動揺していました。

「とにかくクリーニングしますね。時間もかかりますし一回では大変でしょうから、三回にわけてやりますので、通院してください。それとご自宅でも歯間ブラシやフロスを使って歯垢をとってください」

「歯磨き、ちゃんとしてるわよ」

「磨き方も指導させていただきますが、併用されると効果的ですから」

「仕方ないわね。で、どこに行けば売ってんの。歯間ブラシ。薬局?」

「受付でも売ってます」

「しっかりしてるわね」

 佐伯さんの反論を予想していましたが、彼女は素直に従ってくれました。

治せる自信はありませんでした。しかし思いのほか彼女が協力的だったこともあり、一年で歯茎の状態はかなり改善しました。今では出血もなく、痛みもほとんどないはずです。

 それからというもの、佐伯さんは月に一、二度通院されています。定期的な検診とクリーニングが目的です。

「ちょっとここ腫れてない」

 さっきも大きな口をあけて、奥歯を指し示しました。

「腫れてません」

 何もなっていなかったから、ついそう応えたのですが、それに対する彼女の返答は、「あんたもう少し明るくできないの」でした。

 別に普通に返しただけなのに。

「痛みを感じるんですか」

「そんなことないけど、違和感があるのよ」

「佐伯さんは歯を食いしばる癖があるようですから、その影響かもしれませんね。歯も歯茎もどちらも問題はありませんから」

「ふーん、まぁ、あんたがそう言うなら、そうなのかもしれないね」

 拍子抜けするぐらい素直に納得すると、口を濯いだ佐伯さんは重い体をチェアから床に下ろし、診察室を出ていこうとしました。

私は後姿を見て、もう少し足を揃えて歩けばいいのにと思いました。

「あ、そうだ。お饅頭」

 佐伯さんはポンと手を叩き、こちらを振り返ると、大きく丸い目をくりくりさせました。

「受付に預けといたから。あんたも食べて。ほら、この前話した駅前の商店街のお饅頭。おいしいんだから」

 そう言い残すと待合室へ繋がるドアから出て行きました。

「あら、松岡さーん。今日はなに? 虫歯? そう、あまり痛い痛いと言わないほうがいいわよ。ここの院長、すぐ抜こうとするから」

 と待合室から大声が聞こえました。

 診療室内には三つのチェアがあります。真ん中のチェアで診察を続けている院長が、あからさまに舌打ちをしました。

「西山、仮封剤を取ってくれ」

 不機嫌そうに助手についている歯科衛生士に命令しました。

 チェアに腰を下ろしている患者さんが何か言ったようです。それに院長は鼻で笑い。「営業妨害ですわ」と返していました。

 私が勤務する高杉医院は、歯科医である院長と、歯科衛生士が私を含めて三人。そして受付を勤める歯科助手が一人の小さな歯科医院です。

 歯科衛生士学校を卒業し、ここに勤めるようになってから七年が経過しました。衛生士の中で私が勤務年数も年齢も一番上ですが、チーフは二つ年下の田中絵里香が勤めています。

「チーフをやってくれないか」

 去年、院長から依頼を受けたとき、私はきっぱりと断りました。院長が形だけ頼みに来たことも知っていましたし、そんな責任のあることはしたくなかったからです。

 この医院に勤め始めて、最初の二年は仕事に慣れようと必死でしたし、やりがいも感じていました。衛生士学校に入学した当時は、OLにはなりたくないから、何か技術を身に付けたいなという程度の気持ちでしたが、二年間の学校生活で歯科医療に携われることへの張り合いと喜びを感じるようになりました。

高杉医院に勤務して三年もすれば後輩もでき、仕事への自信も持てるようになっていました。

これから勤務年数が増えるごとに衛生士としての技術も向上し、歯科医療について理解が深まることで仕事へのやりがいも増える。そう思っていました。しかし現実は逆でした。

 歯科衛生士の主な業務に歯周病の予防があります。歯ブラシによるブラッシングの指導をしたり、歯石を除去したりします。定期的にクリーニングに来られる患者さんには衛生士の担当がつき、継続的に口腔内のケアを行います。

 高杉医院に勤務してちょうど四年目の春のことです。私が口腔内ケアを担当している患者さんが歯痛を訴え、院長が診察を行いました。

「抜いたほうがいいですね」

 院長が患者さんに発した言葉に驚き、私は思わず口を挟みました。

「院長、抜歯しなくても大丈夫だと思います。Cもそんなにひどくありませんし……、それに歯肉の状態も改善しています――」

 院長は突然目の前に野生動物が飛び出してきたかのように、驚いた顔で私を見ました。そしてその目の中に強い怒りを感じて私はたじろぎました。その後、院長は私を無視する形で患者さんと会話し、結局歯を抜くことが決まりました。

「あの場所で私に意見されては困る」

 その日の診療後、院長室に呼び出されました。院長は椅子に腰を下ろしたまま、私にソファーに座るようにとも勧めずに話しを続けました。

「治療については私が判断する。君はそれに従えばいい」

 今では考えられないことですが、そのとき私は口ごたえしました。

「あの方は治療することで歯周病が治るならと思われて通院されています。現に随分よくなりました。あの程度のカリエスで歯を抜いてしまうことは、せっかくがんばってこられた患者さんの努力を台無しにしてしまうことになります」

「あの程度?」

「はい。クラウンで十分に対応できると……」

「君はいつから歯科医師になったんだね」

「……ですが」

「君は!」

 院長のヒステリックな声に私の心臓は跳ね上がりました。

「君は指示に従えばいい。患者の前で私に意見するなどもってのほかだ! 治療の判断は私が行う。私に恥をかかせるな! 私がドクターで、私がこの医院の経営者だ! 君は従業員だろう!」

 院長の顔は朱に染まり、手は小刻みに震えていました。

 あの出来事だけで仕事への情熱を失ったわけではありません。しかし院長が私達衛生士に望んでいることがはっきりとわかり、その望んでいる内容がわかればわかるほど、徐々に私から仕事に対するやりがいを奪っていったことは間違いありません。

院長が私達に求めていることは、技術的に優れていて、自分の指示に従うだけの衛生士だったのです。

 

 午後一時になって、休憩時間に入りました。院長は院長室で、私たちはスタッフルームで昼食をとります。四畳半の小さなスタッフルームには壁際にロッカーと、部屋の真ん中に小さなテーブルと数脚のパイプ椅子があるだけです。

食事を終えると、私以外の三人は連れ立ってファーストフードの店に行くと言い出しました。

「今月いっぱいの割引券があるんです。伊藤さんも行きませんか」

 早苗ちゃんが誘ってくれました。この医院で一番の若手で、受付をしている歯科助手です。

「ありがとう。でもいいわ」

 他の二人の衛生士は私の方を見るともなく、外へと出て行きました。

 私は人気のない診察室に入り、診療用のチェアに身を横たえました。昼からの診療時間は長くなります。いつもそうやって三十分ほど昼寝をするのが日課になっています。

 狭いチェアに身を任せると、どっと眠気が襲ってきます。午前中の診療だけでどうしてこれだけ疲れるのだろうか。自分でも不思議に思います。

今の職場に大きな不満があるわけではありません。同じ衛生士学校を卒業した友人と話をしても、みんな同じような愚痴しか言いません。給料が安い、仕事の拘束時間が長い、院長が厭らしい、立ち仕事で足がむくむ、などなど。

以前、当時付き合っていた彼氏に仕事の愚痴を言うと、どうして別の医院に就職しようと思わないのかと聞かれたことがあります。町には歯医者が溢れかえっているじゃないかと。

どこの歯科医院も同じような状況なのだと説明しました。うちの医院は給料がそこそこいいから、まだましな方なんだと。

 ただ、今の人間関係には疲れています。院長にやたら取り入るのがうまいチーフの田中絵里香と、子分的存在の西山優奈、そして気の弱い歯科助手の根元早苗。わずか数人の医院の中で、社会の縮図が出来上がっているのです。

 私は仕事で必要なこと以外、彼女たちと会話を交わすことはありませんし、週末に彼女たちと会うこともありません。職場では自分に与えられた範囲の中で、患者さんを治療することだけに専念しています。私にとって職場は仕事をするためだけの場所です。

「損な性格だな」

 自分でもそう思うことがあります。衛生士学校を卒業し、高杉医院に勤めだしたころの自分の気持ちを、今では思い出すことができません。

 チェアの上できっかり三十分まどろむと、スタッフルームに戻り歯を磨きました。午後二時半に診療が始まります。

 ファーストフードから帰って来た三人は、大きな声ではしゃいでいました。私は先に診療室へと入りました。

院長室から出てきた院長は、壁掛け時計に目をやり、銀縁眼鏡の底から私に一瞥をくれると、小さく舌打ちをして足早にスタッフルームに近づき、ノックもせずに中を覗きこみました。

「何やっているんだ。時間が過ぎているぞ。根元くん、受付に入りなさい」

 銀縁のめがねの奥で眇められた目が不機嫌さを表していました。さきほどの佐伯さんの件を、まだ気にしているのです。

 受付を覗くと、待合室では既に二人の患者さんが待っていました。一人は青年で週刊誌を読んでいました。もう一人は加藤さんでした。私に気が付いた加藤さんは、目尻にたっぷりと皺を寄せて、会釈をされました。私も頭を下げてそれに応えました。

 加藤さんは私が唯一個人的な会話をする患者さんです。年齢は亡くなった私の祖父と同じぐらいだと思います。

 いつも豊かな白髪をきれいになでつけ、おしゃれな格好をされています。アパレル関係の会社で役員をされているとかで、今日は黒の三つボタンジャケットを羽織、グレーのスラックスを履き、首に朱色のチーフを巻いていました。

(今日は院長の患者だったかしら)

 加藤さんは右下六番と七番をインプラントにしていました。インプラントとは顎の骨にネジのようなものを固定し、そこに人工の歯をつけたものです。インプラントは自費治療で、治療費もばかになりません。自費の患者さんは歯科医院にとって上客なのです。

加藤さんは以前から高杉医院に通院されていて、院長とも気安く話をされます。

診療室に入ってこられると、院長と会話を交わし、ゆっくりとチェアに腰を下ろされました。

(そうだ……)

頭の片隅で燻っていた記憶がよみがえってきました。

 二週間前、加藤さんは歯石を取りに来院されました。

その時は私がスケーリングを行いました。普段からご自分で歯間ブラシを使って手入れをされていますから、それほど時間はかかりませんでした。

「どこも悪くなってないかね」

 優しげな目を、一層ゆるませて加藤さんが尋ねられました。

「まったく問題ありません。すごくきれいにされていて、歯石を取るところがないくらい」

「口の中を女性に見ていただくんだから、きれいにしておかないとね」

「歯科医院に来る必要がないくらいです」

「はは、それは困った。あなたに会いに来る理由がなくなる」

 私は顔が熱くなりました。

加藤さんは口元をほころばせ、また頼みますとおっしゃると診療室を出ていかれました。

私は次の予約状況を確認するために受付に顔を出しました。加藤さんが支払いのためカウンターにいらっしゃって、目が合いました。

微笑もうとしたそのとき、加藤さんの表情に、一瞬何ともいえない変化が現れました。

早苗ちゃんは次の予約を取るため、ノートに目を落としていましたから、その表情を見たのは私だけでした。その後、加藤さんは普通に挨拶をされ出て行かれました。

診療が終わり、片付けをしておりました。受付の子が浮かない顔をして、チーフの田中絵里香に小さな声で打ち明けていました。

「カウンターに並べていた歯間ブラシの数が足りないんです」

私はなんとなく嫌な気がしました。目が合ったときの加藤さんの表情が頭に浮かびました。

しかし、まさか加藤さんが万引きをしたりするはずはないという思いが強くありました。少しいいかげんな所のある早苗ちゃんのミスだろうと納得していました。

(でも、あの表情はなんだったのだろうか)

 加藤さんは院長の診察を受けながら、ときおり話をされ、院長もさっきまでの不機嫌を忘れたかのように、明るく応対しています。

 私は頭を過ぎった暗い影を追い払い、患者さんの治療を続けました。

 

 加藤さんの治療が終わったのと、私が診ていた患者さんが診察室を出て行かれたのと、ほぼ同時でした。加藤さんは私に会釈をされました。

「また来週、クリーニングをお願いします」

「はい」

マスクの下で、自然と頬が緩みました。職場で私が見せる唯一の笑顔かもしれません。

 私は加藤さんに好意を抱いています。もちろん男性としてではありません。

私の両親は共働きで、私は祖父に育てられたようなものです。その祖父は私が十八歳の時に他界してしまいました。

――私の大好きなおじいちゃん。

加藤さんにおじいちゃんの姿をダブらせているのかもしれません。

加藤さんも私を憎からず思ってくれています。

「あなたのような孫が居ればいいんだが」

そう言われたことがあります。加藤さんにはお子さんがいらっしゃいません。奥さんを数年前に亡くされて、今では一人暮らしだと聞いています。

昨年の私の誕生日に、加藤さんはプレゼントを持ってきてくださいました。私は恐縮してしまって、すぐには受け取れなかったのですが、「高価なものじゃないから」そういって加藤さんは照れ笑いを浮かべられました。

結局、いただくことにしました。ほんとはすごくうれしかったのです。患者さんからプレゼントを貰うのは初めてでしたし、「いつもお世話になります」との加藤さんの言葉が心に染み渡りました。

家に帰ってから包装を解くと一冊の本がでてきました。サンテクジュベリの「星の王子様」という本です。

加藤さんがどういうつもりで、この本を私に下さったのかはわかりませんが、今でもベッドの枕元に置き、眠れない夜にはページを捲ります。

辛いことがあった日、悲しい出来事に遭遇した日、そして嬉しいことがあった時もこの本を手に取ります。何だか安心するのです。本を手にしたとき、私はちゃんとした仕事をしているんだという気持ちにさせてくれるのです。

本の中で一匹の狐が星の王子様に向かって言います。

「きみがバラのために費やした時間の分だけ、バラはきみにとって大事なんだ」

本を読み返すたびに、そのときの自分の気持ちによって心に染みとおってくる文章は違うのですが、この言葉はいつも目に留まります。

仕事にやりがいを無くしても、患者さんだけは大事にしなければいけない。いつもそう思わされるのです。

「伊藤さん」

 受付から早苗ちゃんが顔を出していました。

「新規の患者さんなんですが、院長に診てもらおうと思っていたんですけど、まだ手が空きそうにないので、概診お願いしてもいいですか」

次の患者さんまで三十分予約が入っていませんでした。いいわよと応えて、患者さんの記入したアンケートを確認しようと受付に入りました。

カウンター越しに加藤さんが見えました。支払いを済ませ、お釣りを受け取られたらしく財布を手に持っておられました。

加藤さんと目が合いました。ふっと加藤さんの視線が動き、カウンターの上に手が伸びました。

「――昨晩から奥歯に痛みを感じてらして、朝方はましだったらしいんですけど……」

早苗ちゃんはカウンターに背を向けて、アンケート用紙を覗き込むようにして次の患者さんの状態を説明しています。

加藤さんはカウンターに並べてあるキシリトールガムを手に持っていました。そして無表情のまま、ガムを掴んだ手を、ゆっくりとカウンターの向こうに下ろされました。

目をそらすことも、声を出すこともできませんでした。加藤さんは目線を私にあわせたまま小さく頷きました。

目元がわずかに笑っているように見えました。

「お大事に」

 何も気が付かない早苗ちゃんが声をかけ、加藤さんは背を向け、何事もなかったように待合室を後にされました。

「加藤さん、何か買われたの?」

 医院の扉が閉まるのを待ってから、私は早苗ちゃんに尋ねました。

「え? 何も買われていませんけど」

 どうしてですか? 早苗ちゃんの目がそう聞いてきました。

「何でもないの。加藤さんの歯間ブラシがそろそろなくなるころかなと思って」

「すごいですね。患者さんの家のことまでわかるんですか」

 私は適当に言葉を濁しました。

その日の診療が終わり、後片付けをしているとき、ガムの残数が帳簿と合わないということで、早苗ちゃんは院長に小言を言われていました。

 

   2

 

スイッチをまさぐって真っ暗な玄関に電気をつけました。両親はまだ仕事から帰っていません。スリッパを履いて台所に入ると炊飯器のスイッチを入れました。手を洗い歯を磨きました。冷蔵庫を開けてコップに牛乳を注ぎ、それを持って二階の自分の部屋に上がりました。

ベッドに身体を投げ出すと疲れがみっしりと固まりになって押し寄せてきます。目をつぶり瞼の上から手を当てました。

仕事から帰るといつもこうです。日中に蓄えられた凝りが、体の中心から全身へと広がるようで、しばらく何もする気がしません。

ようやく上体を起こすとコップから牛乳を飲みました。部屋の電気をつけ着替えを済ませると、またベッドの上に腰を下ろしてテレビをつけました。

よく知らないお笑いタレントが、舞台の上で身体を大きく振っています。大げさな表情で何かを叫ぶと、顔をめいっぱいゆがませて床に倒れこみました。ばらばらと会場から笑いが起こります。

テレビをぼんやりとみつめながら、どうしてこの人は、そこまでばかができるのだろうかと考えました。どうしてそんなに一生懸命お笑いができるのだろう。

――お笑いが好きだから。

簡単な答えだけどたぶん間違っていないのでしょう。

私はもう一口牛乳を喉へと流し込むと、テレビの上の写真立てに目をやりました。そこにはオランダの画家であるレンブラントが書いた「夜警」のポストカードが入っています。

暗い色調の中に群集が描かれています。アムステルダムの美術館で初めて見たとき、私はこの絵に魅せられました。

ポストカードは彼氏と海外旅行に行ったときに買った物です。学生時代から付き合っていた彼氏と二人で出かけた初めての旅行でした。その彼と別れたのは三年前です。付き合い始めたとき、いつかは結婚しようと話をしていました。あれだけ盛り上がっていたのに、別れるときはあっけないものでした。

あれからずっと一人です。元彼からは去年結婚したとの葉書がきました。

彼との写真は全て処分しましたけど、夜警のポストカードだけはとってあります。

この絵の何に魅せられたのだろうか。私にもよくわかりません。

十七世紀にレンブラントによって描かれたこの作品は、市警団である火縄銃手組合から集団肖像画として依頼されたものだそうです。レンブラントは通常の集団肖像画のように依頼者全てを平等に描き出すことをせず、余分な人物も加え、それぞれの人物を巧みに配置することで躍動的な作品に仕上げました。絵画的な価値はそれで高まったのでしょうが、依頼者からは甚だしく不興だったそうです。

そう。思い出しました。頑なに我を通し、自分の納得のいく絵を描くために依頼者の意向を無視したレンブラントの姿勢に、興味を持ったのです。

しかし今はこの絵を見てもなんとも感じません。私の気持ちが変化したためでしょうか。

「あー」

一人で声を出し、ベッドの上で背伸びをしました。夕食はどうしようかと考えました。しばらく待てばご飯は炊けます。父母はたいてい帰宅が遅いため、夕食をどこかで済ませてから帰ってきます。夕食はいつも一人です。

「何もつくる気がしないな……」

 私は階下に降り、食パンとマーガリンを用意して、また自分の部屋にこもりました。

 冷えた食パンにマーガリンを塗りながら、加藤さんのことを考えました。

間違いなく加藤さんは万引きをしました。紳士然とされた加藤さんがなぜあのような行いをされるのか理解できません。着ている物も、腕にはめている時計も、決して安い物ではありません。そういったもので、人格を判断するのは間違っているとは思います。でも、どうしても納得できません。

それに、あの加藤さんに限って、そんなことをするわけがないと思い、私は加藤さんのことを何も知らないではないかと考えました。

質素な夕食を済ませると、枕もとにおいてある「星の王子様」の本を手に取り、読むとわなしにページを捲りました。

自然と長いため息が漏れました。

 

   3

 

平日だというのに、今日は朝から予約がみっしりと入っていました。私の患者さんも三十分刻みで入っています。午前中はリコールの患者さんが三人。新規で予約された患者さんが二人でした。

朝、予約簿を確認しました。午前中最後の患者さんは加藤さんでした。

(どうしよう……)

どう対応したらいいのかわかりませんでした。何も知らない振りはできそうにありませんし、それでいてこちらからこの前のことを尋ねることもできません。

診療時間が始まるまでそわそわしていました。でも診療が始まると忙しさに忙殺されて、加藤さんのことはしばらく考えずに済みました。

新規の患者さんのうち一人がかなり難しい状況にありました。

重度の歯周病に罹っています。

カリエスリスクは低く、虫歯にはなりにくい体質の方なのですが、えてしてこういった方が歯周病になりやすいのです。虫歯にならないから歯医者に来ない。適切な磨き方も知らず、歯石を取るといった知識もない。歯を磨くと血が出るけど、毎日ではないのでそのままにしておいた。その結果、気が付いた時はかなり症状が進行しており、痛みも酷くなる。

こうなってから初めて来院されるケースがあります。

初めは院長がその患者さんを診察しました。とりあえずかなり重度の歯周病に罹っていることを説明し、このままでは歯はいずれ抜けるでしょう。その前に抜いてしまうのが得策ですと話をされました。患者さんはまだ四十代の女性だったのですが、かなりショックを受けたらしく、青白い顔をして状況があまり掴めていないといった雰囲気でした。

「抜いた後には人工の歯を入れますから。ご心配には及びません。インプラントといいまして骨に金属を固定して……えぇ、保険は利きません。費用は少しかかりますが、そりゃ見違えるほどきれいになりますし。何よりも食事がおいしくなる。えぇ、今すぐ決めていただかなくても結構ですが、ぜひお勧めします。でしたらとりあえず、今日はクリーニングをしときましょうか」

 院長はそういって私のところに回してきたのです。

「痛かったら、手を上げてくださいね」

女性はわずかに頭を振って頷かれました。

 溜まった歯石を、キュレットを使って掻き出します。三十分間、ほとんど口を開けての診療でしたから、随分疲れられたと思います。

「驚いたわ」

 口を濯いだ後、患者さんは自分の舌で口の中を確認されていました。

「嘘みたいに歯の表面がツルツルしてる。がさがさしていたのは歯石だったの?」

「定期的にクリーニングにきてください。そうすればきっと歯周病も改善されると思います」

「え? よくなるの? さっき、先生が抜かなければだめだって言われたけど。抜かなくても治るの」

「いえ……」私は少し慌てました。余計なことを言い過ぎたと思いました。「治療の全般については私にはわかりませんから」

 言葉を濁しましたが、患者さんはそれ以上何も言いませんでした。

「でも、痛くもなかったし、今後はできるだけ掃除に寄せてもらうわ」

 うれしそうにそういい残すと診察室を後にされました。

 私は一つ深呼吸をしました。

次の患者さんは加藤さんでした。

心臓が高鳴りましたが、とにかく自然体でいようと心に決めました。

「加藤さん、中へどうぞ」

受付の早苗さんが待合室に声をかけました。

加藤さんはいつもと変わらず、何事もなかったように診療室に入ってこられ、チェアに腰を下ろされました。

「こんにちは」

私は目礼で返すと、「口をゆすいでください」と言いました。

私の声は、いつもと少し違ったと思います。緊張で喉が渇いていました。

加藤さんは上目遣いに私を見ました。そして、小さな声でこう言いました。

「伊藤さん、この前のことは……、黙っていてください」

 突然のことに、動揺した私は周囲に目を走らせました。幸い声が聞こえそうな範囲には誰もいませんでした。

「もう、あんなことしないでください」

自分でも恥ずかしくなるほど、声がうわずっていました。

 加藤さんはゆっくりと唇を広げて、こう言いました。

「ええ。でも、私たちは共犯者です」

 加藤さんはまるで楽しむように、はにかんだ笑みを浮かべました。

「あなたは、二度も見逃してくれた」

加藤さんは、そういうと目を閉じ、口をあけました。

 手に持っていたプローブを落としそうになりました。手が震えました。自分でも呼吸が速くなるのがわかりました。息苦しくなってマスクをかなぐり捨てたいという欲求に抗うのが大変でした。取りあえずは手を動かしてはいましたが、歯茎を傷つけないようにするのがやっとでした。

「お願いですから……」

 のどが詰まって、それ以上話をできませんでした。

「もうしません。安心してください。あなたと私だけの秘密にしましょう」

なぜか加藤さんは嬉しそうに見えました。

 

 あの日以降、加藤さんが来られても、私は受付を覗くことはありません。カウンターの上の物が無くなることは、今でもたまにあるようですが、それが加藤さんが来られたときなのかどうか確認していません。

 院長がこの前のスタッフ会議で、「今度在庫が合わなかったら、少し考えさせてもらう」と言いました。早苗ちゃんは下を向いたまま両手を握り締めていました。

 

    4

 

 時はゆっくりと進みます。特に心の中に悩み事や秘め事を抱えている時は、意地悪なほど時間はのろのろと通り過ぎていきます。

 加藤さんは何度か診察に来られ、私が診ることもありました。これまでと同じように話しかけてこられます。いえ、以前より楽しそうに話をされます。二人だけの秘密を持つことで、私への親近感を得ておられたのだと思います。私はできる限り普通に応対しました。まるで何事もなかったかのように。

 

 ある日、診療が終わり片付けをしていると、後ろから突然肩を叩かれました。驚いて振り向くと、顔を顰めた院長が立っていました。

「ちょっと院長室まで来てくれ」

院長の言葉に、ふと眩暈を感じました。ここのところ院長が私だけを呼び出すことはありませんでした。

早苗ちゃんが、こちらを振り返りましたが、私と目が合うと慌てて逸らしました。ほかの二人の衛生士は何食わぬ顔で片付けを続けています。

 嫌な予感がしましたけど、仕方なく院長室に向かう院長の後を、重い足取りでついていきました。

がっちりとした院長の背中を見ながら、不安がどっと押し寄せてきました。

(何を言われるのだろうか……)

私の頭の中をぐるぐると思考が回りました。

 院長の後について院長室に入りました。奥の壁には窓があり、窓の下にデスクトップパソコンが置かれた重厚な机があります。机の上は資料で溢れています。他の三方の壁は入口を除いて全て本棚で埋め尽くされています。部屋の真ん中には小さな応接セットがあり、院長に進められるまま、私は古びたソファーに腰を下ろしました。

 院長は向かい側のソファーに足を広げて座りました。窓を背にして座っているため、細かい表情はわかりませんでしたが、鋭い目線を私に注いでいることはわかりました。

「私はまどろっこしいことが嫌いなので、単刀直入に言う。最近、受付台の販売用品が何度か無くなっていることは知っているね」

 予想していたより、院長の声は穏やかでした。それでも、私の不安と緊張を静める役には立ちませんでした。院長は私の同意を求めようと言葉を切りましたから、私は仕方なく「はい」と答えました。自分の気弱さが嫌になるぐらい、声は振るえていて、か細い物でした。

「先日、キシリトールガムが一箱なくなった。しかし受付に聞くと、売れたのではないという。確かに収支を精算してもガムの売り上げ分だけ不足していた」

そこで院長はゆっくりと息を吐き出しました。

「君は、何か知っているんじゃないのかね」

 私は打ちのめされました。院長は気がついているのだと思いました。それと同時に加藤さんの顔が浮かびました。

診療の後、優しげな微笑を浮かべ、『ありがとう』とおっしゃる加藤さんの顔。そして『私たちは共犯者だ』と呟いたときの、探るような、そしてどこか嬉しそうな顔。

 もし、私がソファーに腰を下ろしているのではなく立っていたら、その場に崩れ落ちていたと思います。私は現実から逃避するように目を閉じました。心の中は悲しみと恐れでいっぱいでした。この場から逃げ出し、そしてこの町からも逃げ出してしまいたい。そう思いました。

「大丈夫かね」

 院長の声音は、言葉とは裏腹に私を気遣うようなものではありませんでした。どうにか頷きましたが、声は出ませんでした。

「今日はこれ以上言わないよ。明日は休みだ。月曜日までにゆっくりと考えて、私に全てを話して欲しい」

 その後も院長は言葉を繋がれていましたが、私の頭の中には入ってきませんでした。気がついたときには、院長はソファーから腰を上げていて、私の退出を促すため、ドアを開けて立っていました。

 診療室に戻ると、すでに片付けは終わっていて電気も消されていました。今日はゴミ出しの担当の日でしたが、それも済んでいました。気分が酷く落ち込み、人と話をすることを苦痛に感じましたが、お礼を言わなければならないとスタッフルームに急ぎました。

 そこにはまだ三人とも残っていました。着替えをほぼ済ませ、雑談をしていたのです。私が入ると会話が途切れました。

「ゴミ出しの担当だったのにごめんなさい。片付けてくれたのね」私は早苗ちゃんに声をかけました。

「いえ」彼女はおどおどした視線を、チーフの衛生士に向けたので、片付けてくれたのが彼女だとわかりました。

「ありがとう」私はそう言いましたが、チーフの田中絵里香は横を向いたまま少し頭を下げただけでした。

「院長から何かいわれたんですか?」

質問してきたのはもう一人の衛生士の西山優奈でした。チーフと彼女は仲が良く、プライベートでも一緒に遊んでいるようです。

 私は口を濁し、着替えを始めました。いつもすぐに帰るのに、三人はなぜかそこに留まっていました。

「盗みは良くないわ」

 田中絵里香が呟きました。その言葉に私は愕然としました。この子達も加藤さんの犯行を知っているのだと思ったからです。しかし続けて発せられた言葉に、体中の血液が足の下まで落ちていくのを感じました。

「盗人と一緒に仕事なんて、怖くてできないわ」

 驚いて振り向くと、西山が顔を顰めて田中絵里香をつついていました。

(あぁ……何てこと)

 朦朧とした視界に早苗ちゃんが入りました。顔色が真っ白でした。私とほんの一瞬目が合うと、怯えた鼠のように視線をそらせ、鞄を掴み、それを一度取り落として、また慌てて引っつかむと部屋を出て行きました。

田中絵里香は私の横を通り過ぎるとき、あからさまにため息をつき、部屋から出て行きました。西山優奈も無言でその後を追いました。

(あの子達……私が犯人だと思っている)

静寂に包まれたスタッフルームで今度こそ私は立っていられなくなり、背中をロッカーにぶつけました。後頭部を少し打ちましたが痛みは感じませんでした。そのままずるずると床にしゃがみこみました。

(なぜ、なぜ私を犯人だと思うの。誰がそんなこと……)

 早苗ちゃんの怯えた顔が浮かびました。私を犯人だと言ったのは彼女だと確信しました。

私が何をしたっていうのでしょう。ちゃんと仕事はしています。今の職場に絶望していても、患者さんへの治療をおろそかにしたことはありません。患者さんの中には他の衛生士の手が空いていても、無口で愛想のないこの私を指名してくださる方もおられます。人と楽しく話すことは苦手でも、周りの人に不快感は与えないようにいつも気を使っているつもりです。私は静かに生きたいだけなのです。それなのにどうして。

 自然と喉の奥から嗚咽が漏れてきました。

 

    5

 

 メモ用紙に顔を落とし、住所を確認しました。

空には雲一つなく、秋晴れの心地よい朝でした。燦燦と降り注ぐ太陽が、私のかざす日傘の影を地面に落としていました。

目の前の豪壮な邸宅に、私は固唾を飲みました。立派な表札に書かれた氏名は間違いなく加藤さんのものでした。

昨晩、どうやって家に帰りついたのか覚えていません。気がついたときは自室のベッドの上で服を着たまま寝むっていました。時計を見ると夜中の一時を少し廻っていました。頬で涙が乾いていました。

体を引きずるようにして一階のリビングに下りました。灯りをつけると食卓の上に蓋の開いたカップラーメンが一つ置いてありました。たぶん仕事帰りの父が夜食代わりに食べたのでしょう。父も母も既に寝ていました。

私は台所に立ち、水道からコップに水を注ぎました。ゆっくりと飲み干すうちに、少しずつ思考が回復して来ました。

田中絵里香の顔が思い浮かびました。

――月曜日までにゆっくりと考えて、私に全てを話して欲しい――

院長の言葉がよみがえりました。

いたたまれなくなって首を激しく左右に振りました。コップの水をシンクにぶちまけました。

(このままでは嫌だ)

 強くそう思いました。意を決して玄関まで行き、下駄箱の上のラックから自転車の鍵を取り出しました。

 自転車に乗ると、まっすぐに医院を目指しました。昼間には夏の気配が忍び寄っていましたが、夜はまだまだ春の名残がありました。闇の中から現れて後ろへ飛び退っていく風には冷たさが残っていました。

 医院に着くと、私はスタッフ一人一人に持たされている鍵を使って、裏口から中に入りました。

 かすかな消毒液の臭いが鼻に付きます。就職してからずっと嗅ぎなれている臭いです。診療室の電気をつけ、受付に向かうと患者リストを取り出しました。

 そこに加藤さんの住所を見つけ、私はメモを取りました。

 訪ねていってどうするのか。明確にこうしたいということはありませんでした。とにかく、医院の外で会わなければならない。そう思いました。

 家に戻ってからは、ほとんど寝ることができず、朝の七時に一人で朝食を済ませると(父母はまだ寝ていました)、私は家を出ました。加藤さんの住所は自宅からバスで十分ほどの場所になっていました。

 バスを降りると、そこはかなりの高級住宅街でした。五分も歩かないうちに、加藤さんの家を見つけることができました。

 固い決意を持って訪れたのですが、こうやって大邸宅の前に立ってみると、気後れを感じました。

門構えからして立派で、瓦の載った大きな門には三つの扉がついていました。門の両側には土塀が伸びていて、庭に植えられた松の木が顔をのぞかせています。

 鞄をきつく握り締めてインターホンを押しました。

 時間が流れました。このまま帰ってしまいたい。留守ならそれでいい。緊張感に耐えられなくなって、一歩後ろに足を引いたとき、勝手門が内側に開きました。

 白いシャツにねずみ色のズボンを履いた姿で加藤さんが立っていました。私の顔を見て、「やぁ」と声を発せられ、心底うれしそうに白い歯を見せて微笑まれました。思わず、その屈託の無い笑顔に釣られて、私もわずかに笑みを浮かべてしまいました。

「朝早くにすいません」

「よく来てくれたね」そうおっしゃると、さも当然のように私を招き入れました。

 門を潜ると、小さな石橋のかかった池があり、きれいに手入れされた庭木が植わっていました。その向こうに玄関が見えます。

「庭師にお願いして、手入れしているんだよ」

 私の表情を見て、加藤さんが言いました。私は導かれるままに玄関まで足を進めました。

自宅は平屋建てでしたが、屋根には黒光りする瓦が載っていて、玄関の入口は引き戸になっていました。建物の中は薄暗く、わずかに黴の臭いがしましたが、きれいに掃除されていました。

ひんやりとした廊下を渡り、案内された部屋は和室で、開けっ放しにされた縁側を隔てて、優美な庭園を見渡すことができました。加藤さんは私に中央に置かれた座卓を勧められ、部屋を出て行かれました。

 私はしばらく、ここに到着するまでに抱いていた暗い気持ちも忘れて景色に見とれてしまいました。

「何もないが」

加藤さんが戻ってきました。丸いお盆の上に湯飲みが二つ載っていて、湯気が棚引いていました。

「家政婦がまだ来てなくてね。妻がいれば、ちゃんとしたものを出せるんだが。あいにく、三年前に私をおいて一人で旅立ったまま、まだ帰ってこない」

 加藤さんは目尻の皺を一層深め、寂しそうに微笑まれました。

「この家も、妻と二人の生活でも持て余していたのに、私一人ではどうしようもない。売ってしまおうとも思ったが、いろいろ思い出もあるから。なかなかね……」顔に微かに苦渋の色が走りました。「でも、あなたが来てくれるとは思わなかった」まるで早朝に咲く朝顔のように、加藤さんの表情は変わりました。優しさに満ち溢れた笑顔でした。

私はここに来た目的を話すにはかなりの努力が必要でした。それでも決意を固め、口火を切りました。

「今日、お伺いしたのはこれをお返しするためです」

 私は鞄から『星の王子様』の本を取り出し、座卓の上におきました。

「……どうしてだね」

 私は言葉に詰まりました。加藤さんの瞳は澄んでいました。私の言葉に戸惑いを感じて、不安に思われている様子も伝わってきました。

「……あの件、かね」

 私は頷きました。何かしゃべろうとしましたが、上ずった声がでるのを恐れて、口を開くことができませんでした。

「申し訳ない」

 加藤さんは畳に両手を付いて頭を下げられました。

「大人気ないことをしたとおもっている。もう二度としない。ご迷惑をおかけした」

顔を上げられた加藤さんの瞳は穏やかでした。ただ瞳の奥からじわじわと寂寥感が押し寄せてきて、瞳の色を深く沈んだものへと変えていくような、そんな風に思えました。

「なぜ、あんなことを」

「何か刺激が欲しかったんだ」

 怖気を感じました。これまで描いてきた私の中の加藤さんという虚像が、平筆でどんどん塗りつぶされていきます。

「妻が死んでしまい。去年には会社も引退して人に任せている。会長職にあるからいくばくかの給料は入ってくる。これまでの貯えもある。親が残してくれた財産もあるしね。私はこれから何一つ不自由せず、老後を送るだろう。ずっとこれから、静かで安穏な生活が続くわけだ。私は長い間、死に物狂いで仕事に没頭してきた。妻との間には子供もできなかった。しかし私はそれでいいと思っていた。仕事さえあれば、それでいいと……」

 おじいちゃんのことを思い出しました。優しかったおじいちゃん。おじいちゃんは友禅染の絵師でした。おばあちゃんが亡くなってからは、おじいちゃんは私たち家族と暮らすようになり、仕事もやめてしまいました。

 私が十八歳の夏、おじいちゃんは脳溢血で倒れ、そのまま目覚めることはありませんでした。それでもおじいちゃんの死に顔は幸せそうに笑っていました。

 私の中のおじいちゃんはいつも笑っています。

「だから刺激を求めて万引きしたと」

やはり私の声は震えました。それにあわせるように膝に乗せた手も震えました。ハンカチを鞄から取り出してきつく握り締めましたけど、震えはいっこうに止まりそうにありませんでした。

「いや」

加藤さんは遠い目をされました。そしてゆっくりと私の顔に目を落とされました。まるで愛する人を見つめるような視線でした。

「ばかげたことだとはわかっているよ。あんたにも嫌な思いをさせたね」

「他のところでも、あんなことをされているんですか」

加藤さんは首を横に振りました。「あなたの勤める歯科医院だけだよ」

 私は悟りました。私が二度も加藤さんが万引きをする瞬間を目撃したのは、偶然ではないと。

「年甲斐もなく、あなたのことを好きになってしまった。あなたは決して驕ることなく、自分の仕事を一生懸命されている。私の妻もそうだった。私の妻は医者でした。彼女は仕事に情熱を持って取り組んでいた。私のように親の財産をついで始めた仕事ではない。彼女は自ら医療に従事することを志し、苦学の末、自分の力で開業した。私はあなたの真摯な態度の中に、妻の面影を見たのかもしれない」

あなたを好きになってしまったという言葉に、戸惑いと微かな嫌悪感と、そしてほのかな喜びとが螺旋になって浮かび上がってきました。それと同時に、仕事を一生懸命されているという言葉に強い焦燥感を覚えました。

しばらく沈黙が流れました。私は俯いていました。顔を上げると加藤さんの目を見据え、ゆっくりと言葉を吐き出しました。私の心の中にサディスティックな気持ちがあったのだと思います。

「私が犯人だと思われています」

 はっと、加藤さんの顔に変化が現れ、驚きで目を見開かれました。

「昨日、院長に呼ばれました。最初は加藤さんがされたことを知っていながら黙っていたことについて責められているのだと思いました。でも、違いました」

「……どうして」

「お願いですから、もうやめてください」

 加藤さんは首を横に振られました。

「もうやってないよ。二度目に君に目撃されてから、一度もやってない」

(うそつき!)

心の中で叫びました。心の中で叫んだつもりが、声となって口からこぼれていました。

 加藤さんは悲しそうな目をされました。しかしそれが全て偽善的な行為に見えて、腹立たしく写りました。

「それだけ裕福に暮らしていて、何の不自由もない人が……ただのわがままです!」

興奮して涙腺が耐え切れなくなって涙が頬を伝いました。私は立ち上がりました。

「私も疑われたまま、仕事をやめるのは嫌ですから。明日、院長に全てを話します」

 頭を下げると、加藤さんの傍らを走りぬけ部屋を飛び出しました。悲しくて、涙が止め処もなく溢れました。

 

    6

 

 翌日、辞表を持って出勤しました。辞表なんて書いたことがなかったですし、なんて書いていいのかさっぱりわかりませんでしたが、とりあえず理由については『一身上の都合により』とだけ記しておきました。

 加藤さんのことを話すかどうかについては、一晩中考えた結果、話さないことに決めていました。話しても信じてもらえないだろうという思いもありましたが、正直なところ話すことによって発生する煩わしさから逃避したかったのです。

 ただ、罪を被ったまま辞めるつもりはありません。

「私はやっていません」

それだけを伝えるつもりでした。

 仕事をやめることへの後ろめたさはありました。これまで診てきた患者さんたちに対してです。何人かの患者さんは、私がずっと担当してきましたから、こちらの勝手な理由で診療ができなくなることを心苦しく思いました。しかし、一日でも早く仕事をやめたいとの思いが、それを凌駕していました。

 出勤してみると、院長と二人の衛生士が既に来ていました。出勤時間はいつも院長が一番で、私が二番ということが多く、今日も他の三人が来る前に院長に辞表を出そうと考えていましたから、私は戸惑いました。

 スタッフルームで着替えを済まし診察室に入ると、三人はこちらを振り向きました。私は目線を逸らし、勇気を振り絞って「おはようございます」と言いました。

 すると院長が近づいてきて、「ちょっと院長室へ」と言い、私の肩に触れました。不機嫌そうではありましたが、どこか神妙な顔つきでした。

私は白衣のポケットに忍ばせている辞表を握り締め、後に従いました。不思議といつもの緊張感はありませんでした。

 院長室に入ると、院長が先にソファーに腰を下ろし、私にも座るように促しました。私がソファーに腰を下ろすのを待って、院長は言いました。

「すまない」

 小さなテーブルに両手をつき、頭を下げました。状況がつかめなくて、何も応えることができませんでした。

「昨晩、根本君から電話があって」院長は早苗ちゃんの苗字を言いました。「窃盗事件は帳簿のミスをごまかすために仕組んだことだと自白したんだ」

「え?」

「木曜日に受付台からキシリトールガムが一箱なくなっていてね。それで金曜日の朝に強く問い詰めたんだ。そしたら君が犯人だと思うというようなことをいうから」

 院長が何を言っているのか、しばらくの間理解することが出来ませんでした。

「昨晩、泣きながら電話してきて。私が取りましたと言ってきた」

「どうして」

「売り上げの収支が合わなかったそうだ。私にまた怒られると思ったんだろう。ガムを誰かが盗んだらしいということにして、ごまかそうとしたんだ。ミスを隠せると思ってね」

「それで私のことを……」

「いや……。君の名前をあげたわけではない」

そこで院長の歯切れが悪くなりました。

「いつ、誰に取られたんだと強く問い詰めた。あの子が受付を外したのはいつで、そのとき誰がいたんだと」

 院長の詰問をしている姿が目に浮かびました。早苗ちゃんは怯え切って身をすくませていたことでしょう。

「そしたら患者が取るのは不可能なんじゃないかという結論に至った。一箱まるごとだからね。それならスタッフの誰かがということになって、三人の名前を順番に挙げていったんだ。もちろん君の名前を最後に挙げたよ。信用しているからね」

 最後の言葉が空々しく聞こえました。詰問を受け、返答に窮した彼女は、院長が私の名前をあげたとき、首を横に振らなかったとのことでした。院長の仮借ない尋問に怯えきった彼女の顔を思い浮かべることができます。もし容疑者として最後に上げられた私の名前で首を横に振れば、院長が次に誰を疑うか、彼女は気がついたのでしょう。自分が疑われると。だから彼女は、硬直して首を横に振ることができなかった。そして院長は私が犯人だと決めてかかったのです。

「すまない」

「それだけですか」

「え?」

「販売用品が無くなったのは、それだけですか」

「いや。二ヶ月前に歯間ブラシやガムがなくなったことがあったな。それ以降は二度ほどガムがなくなったことがあったけど、どちらも返しに来た」

「返しに?」

「一度目は幼稚園児で、二度目は小学生がとったようなんだが、どちらも後で親が気づいて返しに来た」

(あぁ……)

少なくとも加藤さんの、「あれからはやってない」という言葉は本当だったということになります。私が罵声を浴びせたときの、加藤さんの悲しそうな顔が浮かびました。どちらにしても、あの人とはもう会えないなと思いました。

(やっぱり辞めよう)

「院長」

 私はポケットから辞表を取り出し、院長に差し出しました。

 院長はしばらくじっと辞表をみつめ、まるで汚らわしい物でも触るように指でつまみあげました。眉間には深い皺が刻まれていました。

「私の謝り方が足りないということかね」

院長の言葉に尊大な響きが戻っていました。

「すいません」私は頭を下げました。

「……なんだよ、それ。おれに謝らせておいて」院長はあからさまに舌打ちをしました。

「引継ぎはちゃんと……」

「いいよ。明日から来なくていい」

そういうと院長は席を立ち、パソコンに向かいました。これ以上、何も言うことはない。背中にそう書いてありました。

 高杉医院での私の仕事は、この日を持って終わりました。

 

    7

 

 新しい勤務先は前の医院から電車で二駅のところにあります。通勤は少し不便になりましたが、同じ町の歯科医院に勤める気にはなれず、偶然求人を出していた今のところに勤めることになりました。院長先生は女性で、私より十歳年上の若いドクターです。医院としてもまだ発展途上で、衛生士も私を入れて二人しかいません。

勤め始めたときは慣れない環境での緊張感から、毎日は飛ぶように過ぎ去っていきました。

 院長も先輩の衛生士も非常に明るく、てきぱきと仕事をこなしていきます。二人とも口下手で反応の悪い私にも嫌がらずに話しかけてくれますし、私も徐々に彼女たちのペースにはまりつつあります。ここなら自分を変えることができるかもしれない。そう思えるようになりました。

 早苗ちゃんから手紙が来ました。手紙には謝罪の言葉が書かれていました。悪気はまったくなかったこと。ただ自分のやったことで、私を退職に追い込んでしまったことを大変申し訳なく思っていること。そして自分も来月で退職することにしたこと。

 追伸として加藤さんのことが書かれていました。私が院長に辞表を提出した日の夕方、加藤さんは医院に来られたとのことでした。そして私が辞めたことを聞き、大変落胆された様子だったと書かれていました(西山さんから聞いた話ですがと書かれていました)。

 早苗ちゃんに返事を書きました。医院を辞めたことに悔いはなく、辞めるための良いきっかけになったのだと書きました。また私への疑いも晴れたことですから何も気にしてない、早苗ちゃんも気にしないで欲しいと記述し、ポストに投函しました。

一ヶ月が過ぎ、少し仕事に慣れてくると、ようやく周りが見えるようになりました。そうなると、衛生士業務としての物足りなさを感じるようになりました。

ここでの衛生士業務は院長の診察の補助につくことが主で、院長の指示があったときだけ、断片的にスケーリングをしているといった状態です。

 院長は別に予防に対する意識が低いと言うわけではないようです。いろいろと勉強はされていますし、キュレットやその他予防に必要な器具も揃っています。しかし先輩の衛生士は今まで予防に直接携わったことがないらしく、医師の助手としての仕事に何の疑問も持っていないようでした。

 今日は朝から患者さんのキャンセルが二件続き、私たちは交代で休憩を取っていました。私に休憩の順番がまわってきたため、スタッフルームでお茶を飲みながら、ぼんやりとしていました。

この医院での勤務を始めて数日経った時、私は加藤さんに手紙を書きました。

加藤さんが万引きしたという罪は消えません。ただ、私が目撃したあの二回以降はやってないということは事実でした。ご自宅を訪問したとき、あの人に浴びせた私の罵声は、やはりひどすぎたと思います。だからそのことが謝りたくて手紙を書きました。それと院長には加藤さんのことは何も話していないといったことを記載しました。最後に名前だけを記し、新しい職場のことには何も触れませんでした。

 扉をノックする音と同時に、先輩の衛生士が顔を出しました。

「電話が入っているわよ」

「私にですか?」

「うん。女の人」

「セールスとかじゃなくて?」

「たぶん違うと思うわ。そちらに伊藤美樹という歯科衛生士がいるかと聞くから、替わりますのでちょっとお待ちくださいって言ったらぎゃーぎゃー騒いでいたわ」

 なんだろう。思い当たるところはまったくありませんでした。仕方なく電話口に向かい、受話器を耳に押し当てました。

「替わりました」

(あんた相変わらず暗い声して。探したわよ!)

 私は思わず受話器から耳を遠ざけました。声があまりにも大きかったからです。

「あの……」

(もしかして忘れたの。私よ、私!)

 電話の相手は、高杉医院に通院していた佐伯さんでした。そう、私のことを愛想の無い衛生士だと毒づいていたおばさんです。

(どんだけ探したと思ってんのよ。あのいけ好かない医者に聞いても知らないっていうし。あんた社員に逃げられたのって言ってやったら、えらく不機嫌な顔してたわよ。ほんと、あんたを捜し求めて町中の歯医者を三十件も電話したんだから。わかる? 三十件よ、三十件。耳が痛くなったわよ)

「どうして、私を」

(あんたしかいないでしょ。私の歯茎を治せるの)

「……」

(あんたがいたから、行ってたのよ。あの歯医者)

「そんなことないですよ。私なんか……」

(あら、嫌だ。あんた泣いてんの? やめてよ私まで泣けてきたわ。ほんと探したんだから。電話帳の数字ってちっちゃいんだから見えないのよ。ほんと目が痛くなっちゃって。今度NTTに文句言わないといけないわ)

 私は受話器を握り締めたまま、声を出して泣きました。驚いた院長が駆けつけてきて、変な電話なんだったら私が替わってあげるからと言いました。私は何度も首を横に振りました。

 佐伯さんは、今日診療して欲しいんだと言い、最終時間で予約を入れました。

 歯周病の患者さんだと聞き、院長は不安そうな顔をしましたが、私に一番端のチェアを使うように指示をしました。私は戸棚にしまわれた真新しいプローブとキュレットを準備しました。

 佐伯さんが現れたとき、恥ずかしくなって照れ笑いをしました。

「あんた、何だか顔色がよくなったねぇ」

 彼女は病院内に響き渡るような大声でそういいました。私が診察を続けている間、先輩の衛生士は興味深そうに覗き込んでいました。

「あんたも、この人ぐらいうまくなるように見習いな」とおばさんが言い、私はひやりとしましたが、先輩衛生士は明るい声で、「がんばりまーす」とこたえました。その応え方がおもしろくて、三人で笑いました。

「そうだ、預かりものがあるんだ」

 診察を終えて、受付で支払いを済ませた後、彼女は鞄の中から真っ赤な紙袋を出されました。

「ほら、なんて言ったかしら。名前聞いたんだけど忘れちまった。あのオシャレな紳士だよ。あんたの患者さんの」

「あっ……」

「私が歯医者の受付であんたのこと聞いてたら、もし会うことができたらこれを渡してくれって頼まれたのよ。会えるかどうかわからないって言ったら、あなたなら見つけられるでしょうって。どうして私の行動力の凄さがわかったのかしら、なかなかたいした紳士だわ」

 私は赤い紙袋を受け取りました。小さな白いリボンがついています。

「すごいわね。患者さんから贈り物もらうんだ。私、もらったことないなぁ」先輩衛生士が呟きました。

「あと二人ほど、あんたの行き先探してる患者さんいるからさ。また予約入ると思うわよ。あんたね、職場変わるときはちゃんと連絡しなくちゃ。頼りにしている人間がいるんだからさ」

「はい」

「あら、なんで泣いてんのよ! 私、人の涙に弱いのよ。やめてよ、何だか悲しくなってきたじゃない」

 おばさんは私の肩をバシバシ叩きました。

 でも私は泣いてしまいました。なぜか佐伯さんもオイオイ泣いていました。

 

 加藤さんがおばさんに言付けて届けてくれた物は、私がつき返した『星の王子様』の本でした。

小さなカードが同封されていました。

 

『あなたに差し上げたものです。お返しします。

子供じみた行動を取った自分を恥ずかしく思っています。

お許しください。

 

あなたに診ていただいた患者は、一生懸命治療していただいた分だけ、あなたを必要とし、あなたを大事に思っています。

 

これからもがんばってください』

 

と書かれていました。

私はまた泣いてしまいました。でも泣き終わったあと、うそのように心は晴れ渡っていました。

「うん、がんばろう」

 涙で頬を濡らしたまま、私は笑顔を作りました。

佐伯さんは相変わらず診療に通ってこられます。以前勤めていた医院から、他にも二人の患者さんが診療に来てくださいます。

 徐々に予防や歯周病治療のための患者さんも増えてきて、私も先輩の衛生士も、忙しく働いています。

 加藤さんには手紙を書きました。星の王子様は確かに受け取りましたと書き、佐伯さんにお会いして、なぜか大泣きしましたと記しました。

そして最後には勤務先の住所を書きました。

加藤さんは、まだ診療に来られていません。

もう、来られないかもしれません。でも、もしお会いできることがあれば、以前とは違う、私の笑顔に驚かれることでしょう。

 

 


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